Biniam Girmay

 

緑の翼、赤土の記憶

ービニヤム・ギルマイ


プロローグ:ニースの風、アスマラの幻聴

2024年7月、ニース。地中海から吹き付ける風は、どこか懐かしい湿り気を帯びていたが、そこに含まれる匂いは決定的に違っていた。潮の香り、日焼け止めの甘い匂い、そしてシャンパンの少し饐えたような残り香。 ビニヤム・ギルマイは、表彰台の上で目を細めた。 彼の体幹を包んでいるのは、ツール・ド・フランスのポイント賞ジャージ、「マイヨ・ヴェール(緑のジャージ)」だ。自転車乗りであれば誰もが畏敬の念を抱くその布地は、想像していたよりもずっと軽く、そして恐ろしく重かった。

「Bini! Bini!」

観衆が叫ぶ愛称が、鼓膜を震わせる。その歓声の向こう側に、彼は別の音を聞いていた。 それは、ニースの洗練された拍手ではない。もっと荒々しく、熱狂的で、魂の底から絞り出されるような咆哮だ。標高2,300メートル、酸素の薄い高地で鳴り響く、数千の指笛と古いフィアットのクラクション。 アスマラの音だ。 彼は胸の上の緑色を握りしめた。これは単なる勝利の色ではない。これは、彼が乗り越えてきた「国境」の色であり、彼に託された大陸全体の「希望」の色だった。

「This is my moment.(今が、僕の時だ)」

彼は心の中でそう呟く。それは傲慢さではなく、神が用意した運命を、ただ静かに受け入れる祈りの言葉だった。


第一章:高地の「リトル・ローマ」と父の背中

世界地図の上では、エリトリアは「アフリカの角」と呼ばれる地域の小さな点に過ぎない。しかし、幼いビニヤムにとって、首都アスマラこそが世界のすべてだった。 「雲の上のローマ」。そう呼ばれるこの街は、奇妙な矛盾を抱えていた。イタリア植民地時代の威厳あるアール・デコ建築が並ぶ大通りを、ロバが荷車を引いて歩く。カフェからはエスプレッソの香ばしい匂いが漂い、路地裏からは主食のインジェラを焼く酸味のある匂いが流れ込んでくる。

ここは、時間が凍結された場所だった。 政治的な閉塞感、経済的な困窮。大人たちの顔には、長い独立戦争と、その後の厳しい情勢が刻んだ皺があった。だが、週末になると街は一変した。 自転車だ。 この国において、自転車は単なる移動手段でもスポーツでもない。それは「宗教」だった。かつて植民地支配者が持ち込み、現地人が乗ることを禁じた乗り物。エリトリアの人々はそれを自らの手で奪い返し、自由の象徴へと変えたのだ。

ビニヤムの原風景は、父ギルマイ・ハイルの作業場にある。大工である父の周りには、いつも木の削り屑の匂いがしていた。 貧しい家計の中で、競技用自転車は高嶺の花だった。当時のエリトリアの平均月収からすれば、ロードバイク一台は天文学的な価格だ。それでも、父は息子の眼に宿る熱を見抜いていた。 ある日、父は作業場に一台の青いロードバイクを持ち込んだ。新品ではない。何度も修理され、塗装が剥げかけた中古品だ。だが、ビニヤムにはそれが黄金のチャリオットに見えた。 「Bini、これはただの鉄の塊じゃない」 父は太い指でハンドルを撫でながら言った。 「これは翼だ。この国から、お前をどこへでも連れて行ってくれる翼だ」

その言葉は、少年の心臓に深く突き刺さった。 彼は走った。酸素濃度が平地の70パーセントしかない高地で、心臓が破裂しそうになるまでペダルを踏んだ。肺が焼けるような痛みの中で、彼は知った。苦しみだけが、現実を変える対価なのだと。 従兄弟のメロン・テショメがプロとして走る姿は、彼に現実的な道標を与えた。テレビ画面の向こう、ツール・ド・フランスで走るペーター・サガンは異星人だったが、メロンは同じ血を引く人間だ。 「僕にも行ける。あの山の向こうへ」 アスマラの乾いた風の中で、彼はそう確信した。


第二章:雪と沈黙の独房

2018年、18歳になったビニヤムを待っていたのは、スイスのエーグルにあるUCIワールドサイクリングセンター(WCC)だった。 才能ある若者を育成するこの施設は、彼にとって「約束の地」であると同時に、「寒冷な監獄」でもあった。

飛行機のタラップを降りた瞬間、肌を刺すような冷気に息を呑んだ。アスマラの常春の気候とは違う、骨の髄まで凍らせるような欧州の冬。 だが、もっと辛かったのは「静寂」だった。 アスマラでは、常に誰かの声が聞こえた。隣人の笑い声、教会の鐘、市場の喧騒。人々の境界線は曖昧で、温かかった。 しかし、スイスは静かすぎた。個室の寮、整然とした街並み、他人と目を合わせない人々。言葉の壁が、その孤独に拍車をかけた。 夜、寮のベッドでスマートフォンを握りしめる。Wi-Fiの調子が悪く、家族へのWhatsApp通話が繋がらない。画面に表示される「接続中」の文字を見つめながら、彼は深淵のような孤独を感じていた。

「なぜ、僕はここにいるんだ?」

寒すぎて、トレーニングに出るのが怖い日もあった。指先の感覚がなくなり、涙が凍る。 そんな時、彼の心を支えたのは、やはり「怒り」に似た反骨心だった。 彼には常に「パスポートの色」という見えない壁が立ちはだかっていた。ビザが下りない。ただそれだけの理由で、レースに出られないことが何度もあった。欧州の選手たちが当たり前のように享受している移動の自由が、アフリカ人の彼にはない。 「実力ではない理由で、僕らは排除されるのか」 その理不尽さが、彼の脚に火をつけた。 同世代の神童、レムコ・エヴェネプールとの対戦で勝利を収めたあの日、彼は確信した。雪も、孤独も、ビザの壁も、自転車の上では関係ない。ペダルを踏み込む力だけが真実だ。 彼は、孤独を「冷徹な戦術眼」へと昇華させた。誰も助けてくれないなら、自分の頭脳と脚だけを信じるしかない。陽気な「Bini」の仮面の下で、彼は虎視眈々と世界を狙うハンターへと変貌していった。


第三章:コルクの弾丸、あるいは運命の悪戯

2022年、ジロ・デ・イタリア。歴史が動いた。 第10ステージ。怪物マチュー・ファン・デル・プールとの一騎打ち。最後のストレートで、ビニヤムは彼を突き放した。敗北を悟ったマチューが、走りながらサムズアップを送る。それは、時代が変わった瞬間だった。黒人アフリカ人初のグランツール区間優勝。

表彰台の上、彼は歓喜の頂点にいた。巨大なプロセッコのボトル。慣れない手つきでコルクを開けようとしたその時――。 「ポン」という乾いた音と共に、世界が暗転した。 飛び出したコルクが、左目を直撃したのだ。

激痛。そして、視界の消失。 病院のベッドで、彼は天井を見つめていた。歴史的快挙からわずか数時間後、ドクターストップによるリタイア。 「神様、これがあなたの脚本ですか?」 あまりにも不条理な結末。コメディ映画のような悲劇。世界中がこのニュースを報じた。栄光の勝者が、コルク一つで敗れ去ったと。 だが、ビニヤムは泣かなかった。彼は恐怖――失明するかもしれないという恐怖――を飲み込み、チームメイトの前で笑顔を見せた。 「僕は大丈夫だ。祝おう」

この時、彼の哲学は完成したと言えるかもしれない。 「Never Say Never(決して諦めるな)」 人生は何が起こるかわからない。栄光の直後に地獄があり、地獄の底にも光がある。重要なのは、何が起きたかではない。どう反応するかだ。 怪我、その後のスランプ、そして2023年のツール・ド・スイスでの落車。試練は波のように押し寄せたが、彼はその度に「This is my moment」と呟き、起き上がった。 あのコルク事故さえも、彼は自らの物語を彩るスパイスに変えてしまったのだ。


第四章:緑の翼が生えた日

そして2024年、ツール・ド・フランス。 ビニヤムは、かつてない感覚の中にいた。第3ステージでの勝利が、彼の中のリミッターを外したのだ。 「緑のジャージが、僕に翼をくれた」 無線で彼はそう叫んだ。 スプリンターの最高栄誉、マイヨ・ヴェール。それを身に纏うと、不思議と脚が軽かった。アスマラの高地で鍛え上げられた心肺機能と、欧州の石畳で磨かれた技術、そして数々の不運を乗り越えた精神力が、完全に噛み合った。

第16ステージ、ゴール前2km。 高速での落車。アスファルトに叩きつけられた瞬間、ジロの記憶がフラッシュバックする。またか。またここで終わるのか。 右半身の激痛。鎖骨が砕けたかもしれない。 しかし、彼は立ち上がった。自転車に跨り、ゴールを目指した。 彼を突き動かしたのは、もはや個人の名誉欲ではなかった。

「僕が止まれば、アフリカが止まる」

彼が見ていたのは、アスマラの埃っぽいリビングで、小さなテレビに齧り付いている子供たちの姿だ。かつての自分自身の姿だ。 彼らに見せなければならない。肌の色も、生まれた場所も、パスポートの種類も関係ない。人間は、どこまでも高く飛べるのだと。 その責任感が、痛みを麻痺させた。彼はゴールラインを切り、マイヨ・ヴェールを守り抜いた。












エピローグ:希望という名

アスマラ国際空港から市内へと続く道路は、緑色に染まっていた。 数十万人の群衆。老人も、若者も、女も、男も。誰もが緑のシャツを着て、エリトリアの国旗を振っている。 パレードの車上からその光景を見下ろした時、ビニヤムの目から涙が溢れた。

かつて、この大通りはイタリア軍が戦車で行進するための道だった。 その後は、独立戦争の戦士たちが歩いた道だった。 そして今、自転車に乗った一人の若者が、平和の象徴としてここを通っている。

「Bini! Bini!」

その声は、うねりとなって彼を包み込む。 彼は知っている。この国にはまだ多くの問題があることを。貧困はなくならず、政治的な自由も完全ではないかもしれない。 だが、今日この瞬間、アスマラには「希望」があった。抽象的な概念ではない。ビニヤム・ギルマイという、実体を持った希望だ。

彼は群衆の中に、一台のボロボロの自転車を押す少年の姿を見た気がした。 かつての自分だ。 ビニヤムは、その少年に向かって、心の中で語りかけた。

――行け。世界は広い。 ――恐れるな。翼は、その背中にすでに生えている。

彼は緑のジャージの胸を叩き、アスマラの空に向かって拳を突き上げた。 その瞬間、雲の上のローマに、新しい歴史の鐘が鳴り響いた。





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